11TH AVENUE · FRENCH PORCELAIN
フランス磁器の歴史
王立の製陶所から、パリの工房、リモージュへ。
フランス磁器の歴史
フランスでもイギリスやドイツのように白磁(硬質磁器)への憧れがあり、フランスでは硬質磁器ができる前は軟質磁器が多く作られた。1670年代にルーアンなどで軟質磁器が作られるようになると、1697年にサン・クルーがフランスで初めて正式に軟質磁器を認められた。その後パリで軟質磁器が流行するも、硬質磁器はなかなか作られなかった。ザクセンによるマイセンの硬質磁器完成により、フランスではマイセンに追いつくことが課題となった。そして国家の威信をかけ1745年にヴァンセンヌ窯が設立され、特権を与えられた。その特権のせいで、ほかのパリの磁器発展は止まってしまった(1755年にパリ軟質磁器の終了)が、ヴァンセンヌから移転したセーヴル窯は瞬く間にヨーロッパ随一の窯となった。フランスで硬質磁器が一番最初に作られたのは、オルレアン公ルイの下、1741年に実験的に作られたティーボウルとされる。その後1768年にカオリンが見つかり、硬質磁器が一般的に作られるようになった。そしてナポレオンの帝政時代になると、セーヴルだけでなく、ダゴティやナストなど優れた窯が多くでき、ヨーロッパを席捲した。イギリスやドイツの窯がパリの窯の影響を多大に受け、このときがフランス磁器の盛期といえる。しかし、19世紀半ばになると、転写の流行などにより衰退し、セーブルの写しや似せたものばかりになった。その後19世紀末になると、リモージュの窯々により、アメリカ輸出が盛んになり、1920年代ごろまでリモージュが盛期を迎えたが、その製品の多くは技術的なものとは言えなかった。
年表
【年表】
1697年 サン・クルーが正式に軟質磁器を採用した工房として認められる。
1702年 サン・クルーが王室特権により10年間の磁器製造独占権を得る(以後更新)。
1730年 シャンティイにて磁器工場設立。
1735年頃 メヌシー窯設立。
1740年 ヴァンセンヌ窯設立。
1745年7月24日 ヴァンセンヌが命を受け製造特権を受ける。
1748年 ヴァンセンヌ特権の拡大。磁器工房は白磁、もしくは東洋のレパートリー以外のものを描くことを禁止される。
1756年 ヴァンセンヌがセーヴルへ移転。
1768年 Saint-Yrieixにてカオリンの発見。
1784年 セーヴル以外の色絵が解禁。
シャンティイ・セーヴル・その他
シャンティイ / Chantilly

作品番号:50.211.120a, b
Gift of R. Thornton Wilson, in memory of Florence Ellsworth Wilson, 1950
Public Domain / CC0 · 所蔵品記録
解説・図例を読む
東洋磁器に熱中していたルイ4世アンリ・ド・ブルボン=コンデによって設立。サン・クルー窯で磁器を勉強したシケール・シルー(Cicaire Cirou)を招聘し、磁器製造の勅許を与え、軟質磁器の製造を始めた。極秘の軟質磁器の手法により、日本や中国の磁器、特に濁手の柿右衛門様式の精巧な写しを製造した。この品質は非常に高く、マイセンを凌ぐほどで非常に高い評価を得ていた。初期の頃から働いていたデュボワ兄弟(Robert & Gilles Dubois)はこの極秘の製法を盗み出し、王室主導の下ヴァンセンヌ窯が設立した(のちのセーヴル)。ヴァンセンヌ窯が発展すると逆にその技術者を取り入れ、ロココのデザインなどを制作した。その後はシンプルな染付など簡素なデザインとなっていった。1792年、英国人のクリストファー・ポッター(Christopher Potter)に譲渡した。
詳しい解説
初期のシャンティイを特徴づけるのは、乳白色の地に色絵を配した軟質磁器です。本書は、当初の錫を含む白い釉が、のちに透明感のある釉へ移ったと説明しています。白い余白を生かした柿右衛門風の花・鳥・東洋人物だけでなく、花綱やヨーロッパ風の花、自然な姿を描く花文様へと装飾の幅が広がりました。食器や茶器に加え、装飾用の小物や小像も制作しています。
絵付けの図案には、ジャン=アントワーヌ・フレッスの版画集も利用されました。日本磁器をそのまま写す場合だけでなく、器形や図案を組み合わせて独自の構成にする点にも、この窯の創意が見られます。
代表的な印は狩猟用のホルンで、赤と青の実例が博物館に残っています。字母や人名を伴うものもあり、形だけで制作時期を決めることはできません。本書が紹介する後年の同名工房は他産地の白磁に旧様式の絵付けを行い、木を添えたホルン印を用いたと説明されています。十八世紀の製品と、後年の再制作を区別して見る必要があります。
詳しい解説の出典
- Geneviève Le Duc et Henri Curtil『Marques et signatures de la porcelaine française』、Éditions Charles Massin、印刷28、29、30頁
- The Metropolitan Museum of Art|Jar(Chantilly)
- フランス文化省 POP|Assiette(Chantilly、NA 169)
- Musée des Arts décoratifs|Rafraîchissoir(28233.A)
シャンティイ・セーヴル・その他
セーヴル(セーブル) / Sevres

作品番号:1982.60.180a, b, .181
The Jack and Belle Linsky Collection, 1982
Public Domain / CC0 · 所蔵品記録
解説・図例を読む

セーブル
↑1785年のカップ&ソーサー(メトロポリタン美術館所蔵品)
1740年、デュボワ兄弟によりヴァンサンヌ窯が開かれる。これがセーヴル窯の前身である。1745年には「ザクセンと日本風」磁器製造の独占権を得る。1756年にポンパドール夫人の庇護の下、セーヴルへと移転した。もともとはマイセンを参考にしたが、一流の技8術者たちにより瞬く間にヨーロッパでも随一の磁器ブランドとなった。ラピスラズリの色合いを再現した独特なブルーの色合いは他の追随を許さないほど美しいものである。18世紀のころは軟質磁器がほとんどであったが、1768年、リモージュにてカオリン発見、硬質磁器の製造に成功し、次第に硬質磁器へと移行された。ブロンニャールの時代には帝政様式の特に優れた製品を遺した。現在でも国家のために優れた作品を製造している。
セーヴルは大変高価なものであり、そのため偽物も多く造られてきた。出来の悪いものが多いが、中にはかなり優れた偽物もある。また、セーヴル自体が多種多様なマークを使用していたため、18世紀のものにおける真贋の判断はプロでもかなり難しいものである。
窯印と年代
【窯印例】セーブルマーク

1792年、ルフェーブル夫人注文品のセーヴルより。
セーヴルでは年代がわかる刻印が現代までほとんどの時代で使用されてきた。こちらは1792年製のマークで「PP」が1792年を表すデイトコード。絵付師サインはLouis-Gabriel Chulot(1755-1800)のもの。18世紀のサインは基本的に上絵付で描かれる(例外あり)。絵付師のサインも非常に多様で、照らし合わせる必要がある。
18世紀の年代別コード
| コード | 年代 |
|---|---|
| A | 1753-1754 |
| B | 1754-1755 |
| C | 1755-1756 |
| D | 1756-1757 |
| E | 1757-1758 |
| F | 1758-1759 |
| G | 1759-1760 |
| H | 1760 |
| I | 1761 |
| J | 1762 |
| K | 1763 |
| L | 1764 |
| M | 1765 |
| N | 1766 |
| O | 1767 |
| P | 1768 |
| Q | 1769 |
| R | 1770 |
| S | 1771 |
| T | 1772 |
| U | 1773 |
| V | 1774 |
| X | 1775 |
| Y | 1776 |
| Z | 1777 |
| AA | 1778 |
| BB | 1779 |
| CC | 1780 |
| DD | 1781 |
| EE | 1782 |
| FF | 1783 |
| GG | 1784 |
| HH | 1785 |
| II,JJ | 1786 |
| KK | 1787 |
| LL | 1788 |
| MM | 1789 |
| NN | 1790 |
| OO | 1791 |
| PP | 1792 |
| 1793 | |
| RR | 1794 |
| SS | 1795 |
| TT | 1796 |
セーヴル←焼成年度が1880年、装飾年度が1881年のマーク。焼成と装飾は別で行われるため、マークは2つ別々に付けられる。セーヴルは素地だけや金彩のみの単純な装飾だけで出回るものもあるので、装飾だけがオリジナルではないものも多い。
パリの総説
パリ窯 / Porcelaine de Paris
解説・図例を読む
18世紀からセーヴルの影響を受け、多くの工房ができた。パリ窯とは特定の窯の名前ではなく、パリやその近辺にあった工房をまとめてパリ窯と呼ばれることが多い。というのも、古いパリ窯の作品は窯印がないことが多く、まとめてパリ窯(Vieux Parisと呼ばれるようになった。ただし、ナストやダゴティのように古いパリ窯は非常に高い評価を得ている窯もいくつかあり、イギリスやドイツなどの窯への影響もかなり与えており、一概にパリ窯とまとめる傾向はあまりよくないといえる。出来の良し悪しは様々で、セーヴル同等の評価を受ける窯もあり高値で取引される一方、セーヴルの偽物(特に19世紀半ば以降)も多く作られた事実もある。
詳しい解説
パリ磁器を調べるうえで重要なのは、素地を焼いた製陶所と、白磁を仕入れて装飾した絵付け工房を区別することです。書籍は工房を通りごとに整理し、食器や花瓶を一貫して製造する工場のほか、店の裏に絵付け場を置いた小規模な事業も紹介しています。白磁はリモージュなどから供給され、販売店、絵付け師、製造者の名前が同じ作品に関わる場合がありました。
花や鳥、昆虫、風景、人物を描いた器から、金彩の装飾品まで、形や作風は多様です。絵付け師が工房間を移動したため、署名だけでは特定の窯に結び付けにくい例もあります。無印の作品を含む「ヴュー・パリ」を一つの均一な様式と考えるより、素地、器形、彩色、金彩、署名や住所を組み合わせて比較すると、それぞれの工房の違いが見えてきます。
詳しい解説の出典
- Geneviève Le Duc et Henri Curtil『Marques et signatures de la porcelaine française』、Éditions Charles Massin、印刷96–97、127頁
パリの工房
・ナスト / Nast

作品番号:17.203.2
Rogers Fund, 1917
Public Domain / CC0 · 所蔵品記録
解説・図例を読む
帝政期のパリを代表する磁器工房。1780年にルメール(Lemaire)がポパンクール通りに設立された工房を1783年にジャン・エルマン・ナスト(Jean Népomucène Hermann Nast)が買収し活動を始める。1789年にアマンディエ通りに工場を移した。金彩の新しい技術やクロム元素を発見したルイ=ニコラ・ヴォークランと協力し、クロムグリーンを作り出したり、ルイ・ピエール・シルト(Louis Pierre Schilt)といった優れた画家を登用するなど、頭角を現し、息子たちも工房に入り活躍(1817年にジャンは死去、息子たちが引き継いだ)。1806年にはアメリカのホワイトハウスにも納めた。1819年のパリ産業博覧会で金メダルを受賞、そのとき訪れたルイ18世に称賛された。その生産は単なる食器にとどまらず、フィルターコーヒーメーカーなども製造した。1835年工場閉鎖。
詳しい解説
ナストの製品は食卓用のサービスだけでなく、花瓶、コーヒーポット、スープ入れ、化粧用の器、時計を組み込む品、人物像や照明器具にまで及びます。日常の器と室内を飾る調度品をともに扱い、書籍では丁寧な絵付けと調和の取れた色彩が特徴として挙げられています。器種の幅広さは、パリの磁器工房が生活空間全体へ製品を供給していたことを示しています。
署名には「Nast à Paris」、大文字の「NAST」、組み合わせた頭文字などがあり、発明特許を示す文言を伴う例も紹介されています。印の文字形や長短には変化があるため、一種類の印だけを基準にすることはできません。また、同じポパンクール通りには別の工房もあったので、地名だけでナストと決めず、署名全文と器の装飾を併せて確かめる必要があります。
詳しい解説の出典
- Geneviève Le Duc et Henri Curtil『Marques et signatures de la porcelaine française』、Éditions Charles Massin、印刷119–120頁
パリの工房
・ダゴティ / Dagoty

作品番号:02.6.76, .77
Gift of Alfred Duane Pell, 1902
Public Domain / CC0 · 所蔵品記録
解説・図例を読む
宮廷にゆかりある一族、ダゴティ兄弟(ピエール=ルイ、エティエンヌ・ジャン=バプティスト)がリースにより1800年に始める。当時贈答品として人気があった工房。ジョゼフィーヌに庇護され、1804年に「皇后陛下の磁器工房」の称した。1810年オノレと提携、1819年まで続いた。工房はドニュエルに売却され1823年まで続いた。
詳しい解説
ダゴティとオノレに関係する製品群について、書籍はサービス、皿、ポット、カップ、トレー、台付きの器、人物像などを挙げています。装飾は花などを描く色絵のほか、浮き彫りのモチーフ、メダイヨン、石の表面を思わせる大理石模様にも及び、器の用途だけでなく室内での見映えにも配慮した磁器が作られました。
印には「Dagoty à Paris」や頭文字を添えた名、皇后の工房を意味する長い銘文、オノレとの連名などが紹介されています。書籍の記述は提携や継承に関わる複数の事業をまとめて扱っているため、個々の作品を見る際は印全文、住所、彩色や金彩の違いを確認することが大切です。単に「Dagoty」の一語があることと、どの工房で素地から製造されたかは分けて考える必要があります。
詳しい解説の出典
- Geneviève Le Duc et Henri Curtil『Marques et signatures de la porcelaine française』、Éditions Charles Massin、印刷124–126頁
パリの工房
・コント・ダルトワ / Comte d’Artois
解説・図例を読む
フォブール=サン=ドニ通りの窯。1779年、ルイ16世の弟でのちシャルル10世になるアルトワ伯に庇護されたため「アルトワ伯工房(Comte d’Artois)」と称した。1784年に色絵の生産を許可された窯の1つ。アノン(Pierre Antoine Hannong)により開業という説が有力であったが、実はこれは違う工房であると現在では考えられている(住所が5と26異なる)。アノンは中国磁器に長けた人物で1773年の新聞にその能力が公表されたが、1780年には閉鎖となっている。
詳しい解説
書籍のフォブール=サン=ドニ通りの項には、アルトワ伯シャルル=フィリップの頭文字「CP」に王冠を添えた印が掲載されています。頭文字や王冠は保護関係を示す手がかりですが、その図柄だけで製造者や素地の産地まで確定するものではありません。
同じ通りには複数の事業があったため、住所や署名を省略せず確認することが、同名や近接した工房を混同しないための手がかりになります。本書のこの項は複数の工房をまとめて記述しているため、製品の種類や作風をアルトワ伯の工房だけに帰属させることは避け、個々の作品の記録と照合する必要があります。
詳しい解説の出典
- Geneviève Le Duc et Henri Curtil『Marques et signatures de la porcelaine française』、Éditions Charles Massin、印刷109–110頁
パリの工房
・ラ・レーヌ / La Reine
解説・図例を読む
ティル通り(Rue Thiroux)にあった工房。1776年、アンドレ・アリー・レベフ(Andre Marie Lebeuf)により開窯。1784年に色絵の生産を許可された窯の1つ。マリー・アントワネットの庇護を受け、1778年より「女王の工房(manufacture de la reine、Queen)」と称した。1784年、レベフがGuyに売却。GuyはHouselと協力する(Guyは1798年死去)。1803年に公売にかけられ、1804年に閉鎖となった。
詳しい解説
ラ・レーヌの装飾は、花の細い線や小さな文様を整然と配置する精密さに特徴があります。書籍は、その仕上げが印刷を思わせるほど細かいと評していますが、この比喩だけから、転写技法の使用を確定することはできません。器形の選択も幅広く、王冠を添えた「A」など複数の印が紹介されています。
図版では「A」の字体と王冠の形に複数の変化が見られます。王室に関わる頭文字や王冠は別の工房にも使われるので、図柄だけで判断せず、文字形、彩色、金彩、器形を一緒に比較することが大切です。印の種類と、素地の製造者・絵付けの担当者を結び付ける際は、個々の作品の記録も確認する必要があります。
詳しい解説の出典
- Geneviève Le Duc et Henri Curtil『Marques et signatures de la porcelaine française』、Éditions Charles Massin、印刷126–127頁
パリの工房
・ディール & ゲラール/ Dihl & Geurhard(デュク・ダングレーム / Duc d’Angouleme)

作品番号:2014.68.1
Wrightsman Fund, 2014
Public Domain / CC0 · 所蔵品記録
解説・図例を読む
ボンディ通り(Rue de Bondy)にあった工房。1781年にクリストフ・ディール(Christophe Dihl)とゲラール(Guérhard)によって開窯。1784年に色絵の生産を許可された窯の1つ。アングレーム公爵の庇護を受け「アングレーム公爵の工房(Duc d’Angouleme)」と称したが、革命によりその後援はなくなった。王政復古期も活動的であった。
詳しい解説
ディールとゲラールの製品は、古典的な器形に花や鳥を広く描き、花綱や曲線の文様を組み合わせた華やかな装飾で紹介されています。枝に止まる鳥や自然の花の描写は、細部まで丁寧に仕上げられ、金彩を伴う例もあります。書籍は生産量の大きさよりも、器形と装飾を一体として整えた完成度を評価しています。
印には大文字や筆記体の「Dihl」、「Guerhard et Dihl à Paris」、アングレーム公の工房を意味する長い文言、王冠を添えたゲラールの頭文字などがあります。二人の名が並ぶもの、片方だけを記すもの、保護者の名を大きく示すものがあるため、一つの銘だけを見て別工房と考える必要はありません。署名の省略形や綴りの違いも含め、器の作りと装飾とともに確認します。
詳しい解説の出典
- Geneviève Le Duc et Henri Curtil『Marques et signatures de la porcelaine française』、Éditions Charles Massin、印刷99–100頁
パリの工房
・デュク・ドルレアン / Duc d’Orlean
解説・図例を読む
(Rue des Boules、Rue Amelot)にあった工房。ルイ・オノレ・デラメール(Louis Honore Delamarre)によって1784年に登録。1786年Jean-Baptiste-Augustin Outrequinに売却。オルレアン公の庇護を受けるも、1789年で終了した。
詳しい解説
この工房の製品として、書籍は食器のサービス、カップ、小さなポット、盆と器を組み合わせたセットなどを紹介しています。花や鳥、ヤグルマギクを描く装飾が多く、器形自体は比較的端正です。一方で素地や仕上げには違いがあるため、同じ保護者名や頭文字が付いていても、すべての作品を均一の品質として見ることはできません。
印の代表例には「LP」と王冠があり、オルレアン公との関係を示す銘文、アムロ通りの住所を記した長い署名も載っています。王冠付きの頭文字は、同じ公の保護を受けた別工房の印と似ることがあります。書籍もヴァンセンヌやボワセットとの混同に注意を促しており、字の形だけでなく、胎土の色、釉薬、絵付けの精度を比較することが識別の助けになります。
詳しい解説の出典
- Geneviève Le Duc et Henri Curtil『Marques et signatures de la porcelaine française』、Éditions Charles Massin、印刷101–102頁
パリの工房
・ダルテ(ダルト)兄弟 / Darte Freres

作品番号:02.6.186
Gift of Alfred Duane Pell, 1902
Public Domain / CC0 · 所蔵品記録
解説・図例を読む
ダルテ兄弟(ダルト兄弟)はジョセフ(Joseph 、1765-1832), ルイ=ジョセフ(Louis Joseph 、1766-1843) 、ジャン=フランソワ(Jean Francois 、1768-1834)の3人兄弟で、1795年より協力してシャロンヌ通りの工房を買収。ジャン=フランソワを中心としてパレ・ロワイヤルにも店舗を開いた。1803年よりルイ=ジョセフとジャン=フランソワの2人でロケット通りの工房で活動、ジョセフは1804年からポパンクール通りの工房にて単独で「Darte Aine」という名前で活動した。1809年マリア・レティツィア・ボナパルトの庇護を受け、「Manufacture de porcelaine de S.A.I madame Mere de SM. I’Empereur et Roi」と称した。1816年には2番目の店舗をヴィヴィエンヌ通りにオープン。1819年の展示会で銀賞を受賞。当時のパリでも随一の工房として発展したが、ボナパルト家の没落とともに衰退。1824年に息子のオーギュスト・レミの力を借り「Darte Fils」となったが、翌年解散。 1828年に破産が宣告されたがそれでもルイ=ジョセフはボルドー公爵の援助を受けることに成功し、翌年に債権者と和解、ロケット通りの工房は1833年まで続けられ、その幕を閉じた。パリでの随一の絵付け師であったジャン・ピエール・フイエはもともとダルトで修業していた。
詳しい解説
ダルテ兄弟は、食器の白磁に装飾を施す優れた絵付けの工房としても紹介されています。書籍ではシャロンヌ通り、ロケット通り、パレ・ロワイヤルなどの拠点をまとめて扱い、複数の販売場所を通じて作品を提供していたことを伝えています。工房の評価は、磁器を焼く工程だけでなく、選び抜いた白磁に注文に応じた装飾を仕上げる仕事とも結び付いていました。
署名には「Darte frères Paris」、兄弟名とパレ・ロワイヤルの住所、組み合わせた「LD」、名前とロケット通りの住所を含む長い印などがあります。同じ家名でも兄弟、年長者、子の事業を区別する表記があるため、印を「Darte」とだけ略してしまうと重要な情報が失われます。作品を比較するときは、名前に添えられた語と住所を読み取り、器形、彩色、金彩と併せて記録することが役立ちます。
詳しい解説の出典
- Geneviève Le Duc et Henri Curtil『Marques et signatures de la porcelaine française』、Éditions Charles Massin、印刷104、122頁
パリの工房
・シュルシェール / Schoelcher

作品番号:1999.191.1
Purchase, Thomas Jayne Gift, Peter Terian Gift, Friends of the American Wing Fund by exchange, 1999
Public Domain / CC0 · 所蔵品記録
解説・図例を読む
マルク・シュルシェールが設立。マルクは1766年、農夫の息子として生まれる。パリの有力工房ルシンガー&ロクレの工房で働き、1798年にフォブール=サン=ドニ通りの磁器工房を買収した。1806年に妻のヴィクトワールに財産分与を求められ、1810年で製造中止、その後1823年に工房は売却された。別にあった店舗での販売と絵付け事業は続けられ、博覧会で賞を受賞するなど活躍した。1828年に息子のヴィクトールが加わり、ヴィクトルは新たな販路拡大のためメキシコとキューバ、アメリへカ渡った。そこで目にした奴隷制度を目の当たりにし、奴隷制度廃止運動をするようになった。1832年、マルクは死去、1834年に事業は廃止され、ヴィクトルは政治活動に力を入れた。ヴィクトルはその後、フランス植民地における奴隷制度廃止運動を尽力し、1848年の奴隷制廃止政令の制定に至った。
詳しい解説
書籍はシュルシェールを含むフォブール=サン=ドニ通りの工房群について、カップ、受け皿、ポット、水差し、皿、鉢カバー、メディチ型の花瓶など、用途のはっきりした器が挙げられます。書籍は、鮮やかな色を使う端正な装飾を紹介し、風景や歴史・神話の場面を金彩で引き立てる作例にも触れています。器の形は古典的でも、描かれた場面や金彩の組み合わせによって調度品としての個性が生まれます。
印には「Schoelcher à Paris」、「Schoelcher et fils」、単独の「S」、住所や工房名を添えたものがあります。書籍は、シュルシェールの署名が本人の関わった別の絵付け場の作品に見られる例にも触れており、署名と素地の製造を分ける必要があります。青い「S」は他工房にもあるため、全文の署名、住所、彩色、釉薬を併せて確認することが大切です。
詳しい解説の出典
- Geneviève Le Duc et Henri Curtil『Marques et signatures de la porcelaine française』、Éditions Charles Massin、印刷109–110、121頁
パリの工房
・エドゥアール・オノレ / Edouard Honore
解説・図例を読む
1785年設立のオノレ(Honore)窯で、フランソワ・モリス・オノレ(Francois Mourice Honore)の息子として1812年に経営参画する。1816年からナポレオンも購入しジョゼフィーヌがかつて庇護していたダコティ窯のピエール=ルイ・ダゴティ(Pierre Louis Dagoty)と資本提携をする。1820年に資本提携を解消したのちも手腕を発揮し、工房を発展させた。1855年死去、工場は息子が引き継いだ。
詳しい解説
オノレに関係する磁器の装飾には、一般的な花や人物の色絵に加え、浮き彫り、メダイヨン、大理石を模した表面などが紹介されています。皿、カップ、ポット、トレー、台付きの器、人物像といった多様な製品があり、平らな面に描く装飾と器形の凹凸を使う装飾を組み合わせていたことが分かります。
書籍は、白磁を地方で作り、パリで絵付けする工程の分担も説明しています。印には「E. Honoré」、「Ed. Honoré」、パリの住所や地方の製造所を記したもの、ダゴティとの連名、以前の社名を知らせる長い銘文があります。単独名、連名、旧社名の記載を読み分けると、製造と装飾、販売の関係が見えてきます。ただし、署名の種類だけを順に並べて活動年代を決めることはできず、個々の作品の記録と照らし合わせる必要があります。
詳しい解説の出典
- Geneviève Le Duc et Henri Curtil『Marques et signatures de la porcelaine française』、Éditions Charles Massin、印刷124–126頁
パリの工房
・ロクレ / Locre

作品番号:02.6.90, .91
Gift of Alfred Duane Pell, 1902
Public Domain / CC0 · 所蔵品記録
解説・図例を読む
1772年、ジャン=バティスト・ロクレがパリのラ・クルティーユ、フォンテーヌ=オ=ロワ通りに設立した硬質磁器工房。ヘーヒストで原型師を務めたローラン・ルシンガーを責任者に迎え、1773年7月14日に交差する2本の矢の窯印を登録した。1787年にロクレからルシンガーへ経営が移り、1800年にはフランソワ・プイヤが単独所有者となって息子たちに譲渡した。大英博物館の工房記録では、1817年からベリー公の庇護を受け、1820年に生産を終えたとされる。青や多色の絵付け、金彩を施した食器・化粧用器のほか、寓意像や肖像の磁器像も製作した。
詳しい解説
ロクレの磁器は、白さと透光性のある素地、薄く施された釉薬、軽やかに描かれた装飾が特徴として挙げられます。花や曲線の文様を鮮やかな色で表し、金彩を厚く置いて装飾を際立たせる例もあります。書籍は、硬質磁器でありながら繊細な素地の印象を持つことと、器形と彩色の両方を丁寧に整えた製品を評価しています。
交差する二本の矢や松明は重要な印ですが、形には複数の変化があります。書籍は先端が下を向く例をロクレの工房に結び付け、先端が上を向くロケット通りのヴァンサン・デュボワの印と比較するよう促しています。単に「交差した二本」という形だけで判断せず、先端と羽根の向き、添えられた文字、色、器の素地や装飾を確認することが、似た印の混同を避ける助けになります。
詳しい解説の出典
- Geneviève Le Duc et Henri Curtil『Marques et signatures de la porcelaine française』、Éditions Charles Massin、印刷111–113、121–122頁
パリの工房
・クリニャンクール / Clignancourt
解説・図例を読む
1767年頃、ピエール・ドリュエルにより開窯。1775年、プロヴァンス伯ルイ・スタニスラス・グザヴィエ(ルイ16世の弟、のちルイ18世)の庇護を受け「王弟殿下(ムッシュー)の工房」と称し、そのイニシャル「LSX」のモノグラムを窯印に使用。1784年に色絵の生産を許可された窯の1つであるが、それ以前から多色の彩色を使用している。セーヴルと競い合った工房で、技術の高い製品を制作した。フランス革命が勃発すると、1790年に Alexandre Moitteに譲渡。1799年廃窯。その後復活の試みもあったが失敗し、建物の一部は現在にも残る。
詳しい解説
クリニャンクールの製品には、食器のサービス、花瓶、カップ、受け皿、ティーポットなどがあり、形と装飾の双方を整えた磁器として紹介されています。書籍は絵付け師ジョルジュ・ランプレヒトにも触れ、褐色系の濃淡による単色画を特徴の一つに挙げています。多色の華やかさとは別に、色数を抑えた絵付けで場面や輪郭を表す作例も比較の対象になります。
印には風車を描いたもの、王冠を添えた「M」、筆記体の「Moitte」、王族の頭文字を組み合わせた銘などが掲載されています。風車も単純な線の形から建物全体を描く形まで変化があるため、図柄の一致だけでは活動の時期を絞れません。工房名や人物の署名を含む印があれば全文を読み、素地、彩色、金彩、器形とともに比べることが、工房の特徴を見分ける手がかりになります。
詳しい解説の出典
- Geneviève Le Duc et Henri Curtil『Marques et signatures de la porcelaine française』、Éditions Charles Massin、印刷104–106頁
パリの工房
・クリストファー・ポッター(&ブランシェロン) / Christopher Potter(& Etienne Jean Louis Blancheron)
解説・図例を読む
1750年生まれ。1778年にケンブリッジシャーとハンティンドンシャーのシェリフ(州知事)となり、政治家として活動。アメリカ独立戦争では英国軍の食料配給者として活躍。首相候補となるもウィリアム・ピットに敗北。1788年、フランスへ移住し、1790年にブランシェロン(Etienne Jean Louis Blancheron)をとしてクリュッソル通りに工房を設立する。イギリス皇太子(プリンス・オブ・ウェールズ)の庇護受けたため、Manufacture du prince de Gallesと称した。1792年にはシャンティイ窯を買収、スイスの有力工房となったニヨン窯を設立したフェルディナンド・ミュラー(Ferdinand Müller)を加え、磁器製造業に革新をもたらし、パリでも重要な一人となった。1793年にバラン(Jacques Bernard Balan)に工房を売却するも、1794年にはブランシェロンが買い取った。1798年にトロワボルヌ通りに移転、工房は1802年に破産した。ポッターは政治家だったこともあり、フランスへ移住後も帝室とかかわりが深く、1802年にイギリスとフランスで結ばれたアミアンの和約にも、その締結のため活躍したとされる。1817年、イギリスにて死去。
詳しい解説
クリュッソル通りのポッターの製品は硬質磁器で、カップや食器の装飾には幾何学的な文様と花、昆虫を組み合わせる例が紹介されています。規則的な線や区画の中に自然のモチーフを置く構成は、器の輪郭を整える装飾と、絵付けによる変化を両立させるものです。書籍は現存作品の丁寧な装飾を評価しています。
署名は「Potter à Paris」、頭文字「CP」などで、金、赤、刻み印の例があります。ただし「CP」は軟質磁器を製造したクレピ=アン=ヴァロワにも見られるため、頭文字が一致するだけでは帰属を確定できません。色や文字形に加え、硬質か軟質かという素地の性質を確認する必要があります。同じクリュッソル通りには後に別の絵付け工房も置かれたので、通りの名だけでポッターの製品と判断することも避けます。
詳しい解説の出典
- Geneviève Le Duc et Henri Curtil『Marques et signatures de la porcelaine française』、Éditions Charles Massin、印刷107–108頁
パリの工房
・ドニュエル / Denuelle

作品番号:2007.298
Purchase, Mr. and Mrs. Sid R. Bass Gift, in honor of Mrs. Charles Wrightsman, 2007
Public Domain / CC0 · 所蔵品記録
解説・図例を読む
ドミニク・ドニュエル(Dominic Denuelle)の工房。ベリー公爵夫人マリー・カロリーヌ・ド・ブルボンの庇護を受ける。非常に技術が高く、現在でも高く評価されいる窯の1つである。メトロポリタン美術館にはドニュエルによる同夫人の像が所蔵されている。
詳しい解説
ドニュエルは、クリュッソル通りの絵付け工房を中心に、白磁の装飾を発展させた事業として紹介されています。書籍は、外部の白磁供給に依存する状態から製造所を取得して装飾用の白磁を確保する方向へ進んだことを説明しています。この関係を読むと、作品の素地を作る場所と、パリで装飾や販売を行う場所が異なる場合があることが分かります。
印には大文字や筆記体の「Denuelle」、クリュッソル通りやサン=ドニの住所を添えた署名、ベリー公爵夫人の工房を意味する長い銘文などがあります。保護者の名前は、その工房の社会的な位置や注文先との関係を伝える要素です。住所を含む印を省略せず読み、装飾と器形、素地も併せて確認することで、同じ名が使われた複数の拠点を整理しやすくなります。
詳しい解説の出典
- Geneviève Le Duc et Henri Curtil『Marques et signatures de la porcelaine française』、Éditions Charles Massin、印刷108頁
パリの工房
・アンドレ / Andre
解説・図例を読む
1810年頃、モーリス・アンドレ(Maurice Andre)による絵付け工房。
詳しい解説
アンドレの工房は、ノートルダム=ド=ナザレト通りで活動し、近くのメレー通りにも仕事場を移した絵付けの事業として紹介されています。書籍で具体的に挙げられるのは金彩を施した皿で、注文に応じた磁器を少量制作していたと説明されています。大量生産の規模よりも、個々の注文品と署名から工房の姿をたどる例です。
署名には「André fabricant de porcelaine」と、ノートルダム=ド=ナザレト通りの住所・番地を含む長い文言があります。「磁器製造者」という表現があっても、この項目では絵付け工房としての仕事を区別して読む必要があります。名前だけを取り出すと同名の人との区別が難しくなるため、住所を含めて記録し、器の金彩や彩色、素地の特徴も一緒に確認すると、作品を比較する手がかりになります。
詳しい解説の出典
- Geneviève Le Duc et Henri Curtil『Marques et signatures de la porcelaine française』、Éditions Charles Massin、印刷115頁
パリの工房
・フイエ (ボワイエ)/ Feuillet (Boyer)

作品番号:26.223.12a, b
Rogers Fund, 1926
Public Domain / CC0 · 所蔵品記録
解説・図例を読む
ジャン・ピエール・フイエ(Jean Pierre Feuillet、1777年~1840年)によってパリのラ・ペ通りに設立(1814年)。フイエの父親はコンデ公ルイ6世アンリのシェフをしており、フイエ自身もコンデ公の設立した美術学校で絵付けを学んだ。その後ダルト兄弟の工房で修業し、コンデ公の庇護を受け独立、パリを代表する絵付け工房となった。ダルト兄弟やナスト工房から白磁を入手し、帝政様式から復古王政期のスタイルで活躍。その技術の高さから各国の貴族からの注文を受け、パリでも最高の評価を得ていた。1834年に同じ絵付け業者のボワイエ(Boyer)と提携し、その後ボワイエとして引き継がれる(恐らくフイエの死後)。1855年パリ万博では絵付け部門で2級メダルを受賞している(同部門ではトップ)。19世紀後半は機械化の流れに押され、徐々にその品質が落ちていき様々な業者と提携、最終的にPaul Blot et Hebertとなった。またフイエは甥が別工房で活動をしており、こちらはセーヴルスタイルを制作していた(~1846年)。
詳しい解説
フイエやボワイエの名があるラ・ペ通りの磁器は、完成した白磁を装飾する絵付けの仕事として見ることが重要です。書籍は、同じ住所の作品に複数の絵付け師の名前が現れることを示し、個人の署名が工房や店舗の住所と結び付いていることを説明しています。器の製造者と、絵付けや販売に関わった人物を区別すると、署名の意味を読み取りやすくなります。
図版には「Feuillet」、住所と番地を添えたもの、ボワイエがフイエの後継であることを知らせる署名などが掲載されています。また同じ項目は、セーヴルの組み合せ文字を模した印にも注意を促しています。似た文字があっても、素地から装飾までセーヴルの仕事であることの証明にはなりません。名前、住所、全文の銘、器形、彩色、金彩をまとめて確認する必要があります。
詳しい解説の出典
- Geneviève Le Duc et Henri Curtil『Marques et signatures de la porcelaine française』、Éditions Charles Massin、印刷116頁
パリの工房
・ジャコブ・プティ / Jacob Petit

作品番号:94.4.228, .229
Gift of Henry G. Marquand, 1894
Public Domain / CC0 · 所蔵品記録
解説・図例を読む
1796年、パリで生まれる。本名はジャコブ・マルドシェ(Jacob Mardoch?・e)。ヨーロッパを旅し、セーヴルで働き磁器製造を学ぶ。その後1830年頃(1833年とも)にフォンテーヌブロー窯を買収し、製造を始める。また、ボンディ通りに工房も持っていた。同時期の1830年に装飾図案文様集を出版するなど、デザインに非常に精通していた。立体的で豪華な装飾性に優れた作品を生み出し、特に花瓶や水差し、人形など装飾品を得意とし、当時のフランス磁器界に新しい風を吹き込み、人気を博した。1868年死去。プティの作品はルーヴル美術館など各国の美術館に所蔵されている。
詳しい解説
ジャコブ・プティの作品は、ロマン主義やロココを思わせる自由な器形と、多彩な色を使う立体的な装飾が特徴です。書籍は時計、インク壺、鳥をかたどった品などを挙げ、ロカイユの曲線や装飾を豊富に加えた作風を説明しています。実用の器でも、形そのものを室内の飾りとして楽しむ構成になっています。
表面には花を浮き出させて付けたり、単色の地を小さな盛り上がった飾りで彩ったりする工夫が見られます。単色の面、立体の花、多色絵付け、金彩を組み合わせることで、強い装飾性を作り出しました。印の図版には「JP」の文字や、交差する線・矢と組み合わせた形が紹介されています。頭文字だけで判断せず、器形と貼り付け装飾、彩色の組み合わせを併せて比べることが大切です。
詳しい解説の出典
- Geneviève Le Duc et Henri Curtil『Marques et signatures de la porcelaine française』、Éditions Charles Massin、印刷38、40頁
パリの工房
・シャペル(シャペル=メイヤール) / Chapelle(Chapelle-Maillard)
解説・図例を読む
1821年頃に工房を設立しChapelle Filsとして活動していたシャペル(Chapelle)と、1827年から陶磁器やガラスを販売していたメイヤール夫人(Madame Maillard)が1840年頃に提携したパリの工房。シャペルは1830年代にジャコブ・プティ(Jacob Petit)の協力を得て博覧会で高い評価を得ていた工房で、25人~30人ほどの技術者を雇っていた。白磁の販売もしていたが、工房は絵付け専門の工房として活動していたとされている。1844年のパリ産業博覧会で賞を受賞するなどし、1850年まで協力関係は続いた(1850年代も続いたとの説もあり)。
詳しい解説
書籍のイタリアン大通りの項目には、「Chapelle」、メイヤールの名と組み合わせた署名、通り名や番地を含む印が掲載されています。これは作品に残る銘の例を示すものですが、その図版だけでは提携の時期、工房の規模、白磁の供給元まで確定できません。
この工房の作品を比較するときは、シャペル単独の名か連名か、住所や博覧会に関わる文言があるかを省略せず読むことが役立ちます。製造と絵付け、販売を区別し、銘の形だけから経営史を組み立てないことが大切です。
詳しい解説の出典
- Geneviève Le Duc et Henri Curtil『Marques et signatures de la porcelaine française』、Éditions Charles Massin、印刷113–114頁
パリの工房
・リウエ / Rihouet
解説・図例を読む
パリにあった絵付け工房であり、陶磁器やガラスなど販売した小売店でもある。ルイ・マリー・フランソワ・リウレ(Louis Marie Francois Rihouet)がアルブルセック通りにて1818年に設立。リウレもともとオルレアン公に仕えていた一族であり、早くからオルレアン公ルイ・フィリップ(1830年よりフランス国王)に陶磁器を収めており、1824年には王室へ納める陶器メーカーとして任命された。1830年、ラペ通りに移転、ルロゼイ(Lerosey)とも提携した。
詳しい解説
リウエの事業は、白磁に装飾を施す絵付け工房と、作品を販売する店舗の両面から見ることができます。書籍は少量の注文品を紹介し、立体的な卓上飾りや、人物を描いた皿などに触れています。通常の食器だけでなく、注文主の好みに応じた特別な器を提供する仕事も含まれていました。
署名には「Rihouet」の名、王室に関わる肩書、ラ・ペ通りの住所や番地を含むものがあり、ルロゼイの名と住所を記す例も掲載されています。ただし、同じ通りの住所には変化があり、署名にある販売・装飾の場所と素地の製造場所は一致するとは限りません。名前だけでなく全文の銘と番地を記録し、器形、金彩、描かれた人物や文様を比べることが、個々の作品の位置付けを考える助けになります。
詳しい解説の出典
- Geneviève Le Duc et Henri Curtil『Marques et signatures de la porcelaine française』、Éditions Charles Massin、印刷116頁
パリの工房
・ラオシュ(エスカリエ・ド・クリスタル) / Lahoche(Escalier de Cristal)
解説・図例を読む
エスカリエ・ド・クリスタルはパリのパレ・ロワイヤルにあった高級店であり、様々な美術工芸品を取り扱い工芸の中心ともいえるリテイラー。1818年、当時の国王ルイ18世の御用達となる。1830年前後にボワン(Boin)に引き継がれ、1839年にピエール=イジドール・ラオシュ(Pierre-Isidore Lahoche)が加わった(Lahoche et Boin)。1852年(1854年とも)にエミール=オーギュスタン・パニエ(Emile-Augstin Pannier)が加わりPannier, Lahoche社となった。1867年にラオシュは引退、パニエ一族によってその後運営されていったが1923年に閉店となった。陶磁器の販売も行っており、「Lahoche」銘による作品が残されている。絵付けはボワイエなど他工房へ委託していた可能性が高い。
詳しい解説
エスカリエ・ド・クリスタルは、家具やブロンズ、磁器を扱う店として、室内を飾る美術工芸品をまとめて提供していました。書籍はその販売と、磁器の修理・装飾の仕事を紹介し、豊かな顧客の好みに応じて器形や装飾を整えた製品を挙げています。ラオシュの名があることは、店や装飾事業との関係を示し、すべての工程を同店が行ったと直ちに意味するものではありません。
印には「Lahoche Palais-Royal」、「L’Escalier de cristal Paris」、パニエとの連名、店名を囲む形で示すものなどがあります。工房の製造印、絵付け師の署名、販売店の銘を区別して読むことが重要です。器の裏側にある銘を全文で確認し、素地と装飾、店の名の役割を分けて記録することで、高級販売店を通じて供給された磁器の成り立ちを整理できます。
詳しい解説の出典
- Geneviève Le Duc et Henri Curtil『Marques et signatures de la porcelaine française』、Éditions Charles Massin、印刷117頁
パリの工房
・アレ(ハレ,アル)、ルボン・アレ/ Halley, Lebon-Halley
解説・図例を読む
シャルル・アレー(Charles Halley)によって設立。その成り立ちは不明な点が多いが、1793年にはモンマルトル大通りにて陶芸家として記録があり、もともとカーンの工場長をしていたとされる。1811年、その後、陶磁器などの小売店「Au bon pere de famille」をヌーヴ・サン=トゥスタッシュ通りで経営していたたルボン(Lebon)がアレーの娘と結婚し、提携する。ナポレオン政権が終わり復古王政期になると、アルトワ伯爵(のちの国王シャルル10世)に庇護され、その名を冠した窯印も使用した。セーヴル国立陶磁器美術館に残された資料では「Manifacture de porcelaine de SAR Monsieur, frere du Roi」とある。1822年にその記録は途絶えている。
詳しい解説
アレとルボン=アレの磁器は、絵付け工房の製品として、カップ、皿、小さな花瓶が紹介されています。装飾には帝政様式の文様、鳥、花を使うものがあり、比較的端正な器形に彩色や金彩を加えています。書籍は生産量の大きさよりも、残された作品の仕上げを評価しており、署名のある器を通じて工房の仕事をたどっています。
印には「Halley」、「Lebon-Halley à Paris」などの署名が掲載され、赤で記したものと金で記したものがあると説明されています。同じモンマルトル地区では別の絵付け師も活動していたため、通り名だけではこの工房に結び付けられません。連名の有無、文字の色、署名の綴りを読み、鳥や花の描写、金彩、器形を一緒に比べることで、近隣の絵付け工房との違いを確かめやすくなります。
詳しい解説の出典
- Geneviève Le Duc et Henri Curtil『Marques et signatures de la porcelaine française』、Éditions Charles Massin、印刷114–115頁
リモージュの総説
リモージュ / Limoges
解説・図例を読む
フランス製の磁器で一般的に一番よく聞く名前がおそらくこのリモージュである。18世紀にパリの磁器工房などがリモージュに伝わり、磁器を製造するようになった。初期のころはセーヴルへも白磁の提供をしていた。その後、装飾も手掛け、多くの工房が乱立するようになった。初期のころのリモージュに窯印はないが、19世紀中盤ごろからはそれぞれの工房の窯印がつけられていることが多い。シンプルなものから独特のものまで、多種多様の製品が造られ20世紀以降は安価なものがほとんどであるが、エナメル彩やパテシュールパテのような特徴的な技術に特化したものもある。
詳しい解説
リモージュは一つの窯の名称ではなく、カオリンの供給地と多くの製陶所が結びついた磁器産地として読むと、その多様性が分かりやすくなります。本書は、良質な硬質磁器の食器・花瓶・日用品から始まり、各社が独自の器形や装飾を競うようになる流れを説明しています。白さと透光性、均一な釉だけでなく、成形や焼成の技術も産地の評価を支えました。
白磁を作る仕事と、そこに絵付けや金彩を施す仕事は別の場所で行われることがあり、一つの器に複数の印が付く場合もあります。したがって「LIMOGES」の文字だけで特定の工房や装飾の担当者を決めず、社名、字母、製造印と装飾印を組み合わせて確認する必要があります。
十九世紀には工場の統合や設備の近代化が進み、各社の製品は国内外へ広がりました。二十世紀にもアール・ヌーヴォーやアール・デコ、芸術家との協働による作品が制作されており、年代だけで品質や製品の性格を一括りにすることはできません。
詳しい解説の出典
- Geneviève Le Duc et Henri Curtil『Marques et signatures de la porcelaine française』、Éditions Charles Massin、印刷46、47、48、49、50、51、52頁
- Musée national Adrien Dubouché|La porcelaine de Limoges
リモージュの工房
・LAZEYRAS,ROSENFELD,LEHMAN

解説・図例を読む
LEHMAN工房
1920年頃
リモージュの工房
・Jean Pouyat(1842~1914)

作品番号:02.6.150, .153
Gift of Alfred Duane Pell, 1902
Public Domain / CC0 · 所蔵品記録
解説・図例を読む
Puiyat工房
1883年~1914年のマーク

リモージュの白磁の質と製造技術を示す工房。アドリアン・デュブシェ国立美術館は、プイヤの代表作として1878年万国博覧会に出品された「グラン・ド・リ(米粒)」サービスを紹介している。アルベール・ダムーズのモデルによるもので、磁器に透かしを設け、その穴を半透明のエナメルで満たす技法を用いた。
詳しい解説
プイヤの評価を支えたのは、色絵の華やかさだけでなく、器形そのものを見せる白磁の質と成形の精密さです。アドリアン・デュブシェ国立美術館も「リモージュの白磁」を代表する製陶所として挙げています。本書は、定型にとどまらない器形によって産地の新しい展開を示した一族として紹介しています。
関連するサン=レオナールの製陶所について、本書はリモージュの父親の事業から支援や供給を受け、息子たちが良質の白磁を制作したと説明しています。プイヤの名を持つ活動を調べる際には、家族間の関係と製造場所を区別しておくと、同じ名や字母を伴う品を読み解く助けになります。
印の図版には、リモージュの「J.P」と「L」の組合せ、サン=レオナールの「J-P/Jean Pouyat」が掲載されています。ただし、この図版だけでは既存掲載印の使用期間は確定できません。器形、素地、字母の配置、社名や地名を合わせて照合する必要があります。
詳しい解説の出典
- Geneviève Le Duc et Henri Curtil『Marques et signatures de la porcelaine française』、Éditions Charles Massin、印刷47、50、72頁
- Musée national Adrien Dubouché|La porcelaine de Limoges
リモージュの工房
・LA PORCELAINE LIMOUSINE

解説・図例を読む
LIMOUSINE
1905頃~1930年代
装飾のないものには赤のマークはつかない。
フランス文化省の産業遺産記録では、ジビュス&ルドンの磁器工場は1902年にラ・ポルスレーヌ・リムジーヌとなったとされる。同記録は、この工場に原料を供給したカオリン調製施設が、のちに工場への電力供給を担った経緯も記している。
詳しい解説
ラ・ポルスレーヌ・リムジーヌの背景には、前身のジビュス&ルドンが築いた製造設備と原料供給の仕組みがあります。フランス文化省は、前身企業が高級磁器の制作によって成長し、カソー地区へ移ったことを記しています。後の社名だけを見るよりも、工場の継承を合わせて捉えると、この事業の成り立ちが分かります。
原料を調製したムーラン・デュ・プドリエには、カオリンの粉砕設備と水力設備が置かれていました。その施設が原料供給から発電へ役割を変え、磁器工場への送電を担った経緯は、器の外観だけからは見えない製造基盤を伝えています。白磁や絵付けを支えた素材の準備、動力、生産設備まで含めて、リモージュの工場を読むための一例です。
リモージュの工房
・Charles Field Haviland

解説・図例を読む
Field工房
1858頃~1881)
詳しい解説
シャルル・フィールド・アヴィランドは、カソー地区のアリュオー系製陶所と、その後のジェラール、デュフレセックス、モレルの事業へつながる人物です。本書の印図版でも、CFH、GDM、GDAと、CH. FIELD HAVILAND LIMOGESの円形印が別々に示されています。似たアヴィランド名を持つ他の事業と区別し、器底にある印の組合せを読むことが大切になります。
その名は本人が工場経営を離れた後も印として使用されました。アドリアン・デュブシェ国立美術館の一人用茶器には、緑のGDA/FRANCE印と赤いCH. FIELD HAVILAND LIMOGES印が併記され、ジョルジュ・ド・フールの黒い署名も残っています。美術館は、後継会社がアヴィランド名の知名度を生かした可能性を指摘しています。
この例は、経営者名、製造会社の印、意匠を担った芸術家の署名が同じ器に共存することを示しています。CFHの文字があるだけで本人の経営期に限定せず、後継社の印や装飾の特徴まで合わせて判断する必要があります。
詳しい解説の出典
- Geneviève Le Duc et Henri Curtil『Marques et signatures de la porcelaine française』、Éditions Charles Massin、印刷50、52頁
- Musée national Adrien Dubouché|Verseuse – Solitaire(ADL 13083-2)
- フランス文化省 POP|Usine Alluaud, puis Charles Field Haviland…(IA87000220)
リモージュの工房
・William Guerin(1887年~)

解説・図例を読む
William Guerin
1891年~
詳しい解説
ウィリアム・ゲランの仕事は食器にとどまらず、都市の建築装飾にも及びました。フランス文化省の産業遺産記録によれば、ゲラン社はリモージュ中央市場のフリーズを構成する磁器パネルと、市庁舎の噴水を飾る磁器パネルを制作しています。磁器を日用品と装飾材料の双方に用いた製陶所として、その活動の幅がうかがえます。
工場には製造と絵付けのための設備があり、焼成炉の増設や動力の導入によって生産を拡大しました。同記録は、のちにプイヤの工場を取得し、さらにバウォ&ドターの傘下でGuérin Pouyat Eliteという社名になった経緯も記しています。複数の製陶所や装飾工房が一つの事業へまとまる、リモージュの産業史を示す例です。
そのため、ゲラン名を伴う器は、社名の表記と併記された印を確かめて読む必要があります。ここに掲載する窯印の使用期間や装飾担当の範囲は、工場の取得・合併の時期と分けて確認する必要があります。
シャンティイ・セーヴル・その他
アッシュ&ぺパン=ルアルール / Hache et Pépin-Lehalleur
解説・図例を読む
1829年、ピエール・ペトリ(Pierre Pétry)がマルク・シュルシェールからヴィエルゾンの工場を購入。1845年、息子のアドルフ・アッシュ(Adolphe Hache)が引き継ぎ、義理の弟レオン・ぺパン= ルアルール(Léon Pépin-Lehalleur)と経営をしていく。アッシュ&ぺパン=ルアルールは急成長し、1850年代には6つの窯を持ち、フランス磁器の代表とまで言われました。1934年閉鎖、会社はピリヴィッツに引き継がれた。
詳しい解説
アッシュ&ペパン=ルアルールは、ベリー地方のヴィエルゾンで硬質磁器の製造を大規模に展開した製陶所です。本書はこの地方を、多様な製品と良質な仕上げによって発展した磁器産地として紹介しています。個別の工場史と、ヴィエルゾン全体の発展を分けて読むと、同社の位置づけが分かりやすくなります。
一八七八年パリ万国博覧会の政府審査報告は、同社が高級品、食卓用、飲食店用の器に加え、電信用の絶縁体や火に耐える磁器を、用途ごとに異なる素地で製造したと説明しています。原料調製では混入した鉄を電磁装置で取り除き、成形にはフォール(Faure)式機械、鋳込み、型成形を採用していました。
同報告は、白磁・ターコイズ色・金彩を組み合わせた卓上装飾、さまざまな色帯を持つカップ、釉下の高温焼成色で装飾した花瓶も紹介しています。日常食器と技術製品、装飾性の高い作品を並行して作る点に、この製陶所の特徴が見られます。
詳しい解説の出典
- Geneviève Le Duc et Henri Curtil『Marques et signatures de la porcelaine française』、Éditions Charles Massin、印刷92、93頁
- Cnam 電子図書館 Cnum|Exposition universelle internationale de 1878 à Paris. Rapports du jury international, groupe III classe 20、印刷pp.46、139–140(同時代の政府審査報告)
ファイアンスの総説
ファイアンス / Faience
解説・図例を読む
フランスでは日常品として一般的にはファイアンス(錫釉陶器)が用いられていた。
ファイアンスの産地
ヌヴェール

作品番号:17.190.1804
Gift of J. Pierpont Morgan, 1917
Public Domain / CC0 · 所蔵品記録
解説・図例を読む
16世紀にイタリアの職人たちがもたらしたファイアンスが、町を代表する工芸となった。ヌヴェール市のファイアンス・美術博物館は、東西の影響を受けた皿、装飾瓶、彫像などを紹介している。17〜18世紀には貴族の威信を示す品からブルジョワ層へと普及し、19世紀には愛国的主題の器や万国博覧会出品作など、多様な製品へ展開した。
ファイアンスの産地
ムスティエ

作品番号:17.190.1893a, b
Gift of J. Pierpont Morgan, 1917
Public Domain / CC0 · 所蔵品記録
解説・図例を読む
ムスティエのファイアンス博物館によれば、ピエール・クレリシーは1679年に「ファイアンス親方」の称号を得た。青の濃淡による装飾が成功し、器の形や文様、色彩は時代とともに変化した。現在の博物館では、製造の工程とともに歴代の工房の作品を比較できる。
ファイアンスの産地
ジアン
解説・図例を読む
1821年、英国人トマス・ホールがロワール河畔のジアンに設立。ミニム会修道院の敷地と建物を購入して製造を始めた。粘土・砂・珪質の石などの原料に恵まれ、ロワール川は窯の燃料となる木材の運搬にも役立った。初期には八角形や精巧な型成形を用いた白いファイアンスを製作した。
ファイアンスの産地
リュネヴィル
解説・図例を読む
リュネヴィル城博物館は、当地のファイアンスを18世紀の宮廷文化と、19世紀末から20世紀初頭のアール・ヌーヴォーの両面から紹介している。世紀転換期の製品では、過去の器形への参照と自由な創意が結び付き、新しい装飾表現につながった。
ファイアンスの産地
ルーアン

作品番号:17.190.1794
Gift of J. Pierpont Morgan, 1917
Public Domain / CC0 · 所蔵品記録
解説・図例を読む
ルーアン陶磁器美術館は、16世紀から18世紀末までの当地のファイアンスを体系的に紹介している。マセオ・アバケーヌによるルネサンス期の敷瓦、18世紀初頭の放射状装飾の大皿、オークル・ニエレの装飾、陶器による大型彫刻などが代表的な作例に挙げられる。
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