フランスでもイギリスやドイツのように白磁(硬質磁器)への憧れがあり、フランスでは硬質磁器ができる前は軟質磁器が多く作られた。1670年代にルーアンなどで軟質磁器が作られるようになると、1697年にサン・クルーがフランスで初めて正式に軟質磁器を認められた。その後パリで軟質磁器が流行するも、硬質磁器はなかなか作られなかった。ザクセンによるマイセンの硬質磁器完成により、フランスではマイセンに追いつくことが課題となった。そして国家の威信をかけ1745年にヴァンセンヌ窯が設立され、特権を与えられた。その特権のせいで、ほかのパリの磁器発展は止まってしまった(1755年にパリ軟質磁器の終了)が、ヴァンセンヌから移転したセーヴル窯は瞬く間にヨーロッパ随一の窯となった。フランスで硬質磁器が一番最初に作られたのは、オルレアン公ルイの下、1741年に実験的に作られたティーボウルとされる。その後1768年にカオリンが見つかり、硬質磁器が一般的に作られるようになった。そしてナポレオンの帝政時代になると、セーヴルだけでなく、ダゴティやナストなど優れた窯が多くでき、ヨーロッパを席捲した。イギリスやドイツの窯がパリの窯の影響を多大に受け、このときがフランス磁器の盛期といえる。しかし、19世紀半ばになると、転写の流行などにより衰退し、セーブルの写しや似せたものばかりになった。その後19世紀末になると、リモージュの窯々により、アメリカ輸出が盛んになり、1920年代ごろまでリモージュが盛期を迎えたが、その製品の多くは技術的なものとは言えなかった。
1697年 サン・クルーが正式に軟質磁器を採用した工房として認められる。
1702年 サン・クルーが王室特権により10年間の磁器製造独占権を得る(以後更新)。
1730年 シャンティイにて磁器工場設立。
1735年頃 メヌシー窯設立。
1740年 ヴァンセンヌ窯設立。
1745年7月24日 ヴァンセンヌが命を受け製造特権を受ける。
1748年 ヴァンセンヌ特権の拡大。磁器工房は白磁、もしくは東洋のレパートリー以外のものを描くことを禁止される。
1756年 ヴァンセンヌがセーヴルへ移転。
1768年 Saint-Yrieixにてカオリンの発見。
1784年 セーヴル以外の色絵が解禁。
東洋磁器に熱中していたルイ4世アンリ・ド・ブルボン=コンデによって設立。サン・クルー窯で磁器を勉強したシケール・シルー(Cicaire Cirou)を招聘し、磁器製造の勅許を与え、軟質磁器の製造を始めた。極秘の軟質磁器の手法により、日本や中国の磁器、特に濁手の柿右衛門様式の精巧な写しを製造した。この品質は非常に高く、マイセンを凌ぐほどで非常に高い評価を得ていた。初期の頃から働いていたデュボワ兄弟(Robert & Gilles Dubois)はこの極秘の製法を盗み出し、王室主導の下ヴァンセンヌ窯が設立した(のちのセーヴル)。ヴァンセンヌ窯が発展すると逆にその技術者を取り入れ、ロココのデザインなどを制作した。その後はシンプルな染付など簡素なデザインとなっていった。1792年、英国人のクリストファー・ポッター(Christopher Potter)に譲渡した。
↑1785年のカップ&ソーサー(メトロポリタン美術館所蔵品)
1740年、デュボワ兄弟によりヴァンサンヌ窯が開かれる。これがセーヴル窯の前身である。1745年には「ザクセンと日本風」磁器製造の独占権を得る。1756年にポンパドール夫人の庇護の下、セーヴルへと移転した。もともとはマイセンを参考にしたが、一流の技8術者たちにより瞬く間にヨーロッパでも随一の磁器ブランドとなった。ラピスラズリの色合いを再現した独特なブルーの色合いは他の追随を許さないほど美しいものである。18世紀のころは軟質磁器がほとんどであったが、1768年、リモージュにてカオリン発見、硬質磁器の製造に成功し、次第に硬質磁器へと移行された。ブロンニャールの時代には帝政様式の特に優れた製品を遺した。現在でも国家のために優れた作品を製造している。
セーヴルは大変高価なものであり、そのため偽物も多く造られてきた。出来の悪いものが多いが、中にはかなり優れた偽物もある。また、セーヴル自体が多種多様なマークを使用していたため、18世紀のものにおける真贋の判断はプロでもかなり難しいものである。
【窯印例】
1792年、ルフェーブル夫人注文品のセーヴルより。
セーヴルでは年代がわかる刻印が現代までほとんどの時代で使用されてきた。こちらは1792年製のマークで「PP」が1792年を表すデイトコード。絵付師サインはLouis-Gabriel Chulot(1755-1800)のもの。18世紀のサインは基本的に上絵付で描かれる(例外あり)。絵付師のサインも非常に多様で、照らし合わせる必要がある。
18世紀の年代別コード
A | 1753-1754 | B | 1754-1755 | C | 1755-1756 | D | 1756-1757 |
E | 1757-1758 | F | 1758-1759 | G | 1759-1760 | H | 1760 |
I | 1761 | J | 1762 | K | 1763 | L | 1764 |
M | 1765 | N | 1766 | O | 1767 | P | 1768 |
Q | 1769 | R | 1770 | S | 1771 | T | 1772 |
U | 1773 | V | 1774 | X | 1775 | Y | 1776 |
Z | 1777 | AA | 1778 | BB | 1779 | CC | 1780 |
DD | 1781 | EE | 1782 | FF | 1783 | GG | 1784 |
HH | 1785 | II,JJ | 1786 | KK | 1787 | LL | 1788 |
MM | 1789 | NN | 1790 | OO | 1791 | PP | 1792 |
1793 | RR | 1794 | SS | 1795 | TT | 1796 |
←焼成年度が1880年、装飾年度が1881年のマーク。焼成と装飾は別で行われるため、マークは2つ別々に付けられる。セーヴルは素地だけや金彩のみの単純な装飾だけで出回るものもあるので、装飾だけがオリジナルではないものも多い。
18世紀からセーヴルの影響を受け、多くの工房ができた。パリ窯とは特定の窯の名前ではなく、パリやその近辺にあった工房をまとめてパリ窯と呼ばれることが多い。というのも、古いパリ窯の作品は窯印がないことが多く、まとめてパリ窯(Vieux Parisと呼ばれるようになった。ただし、ナストやダゴティのように古いパリ窯は非常に高い評価を得ている窯もいくつかあり、イギリスやドイツなどの窯への影響もかなり与えており、一概にパリ窯とまとめる傾向はあまりよくないといえる。出来の良し悪しは様々で、セーヴル同等の評価を受ける窯もあり高値で取引される一方、セーヴルの偽物(特に19世紀半ば以降)も多く作られた事実もある。
帝政期のパリを代表する磁器工房。1780年にルメール(Lemaire)がポパンクール通りに設立された工房を1783年にジャン・エルマン・ナスト(Jean Népomucène Hermann Nast)が買収し活動を始める。1789年にアマンディエ通りに工場を移した。金彩の新しい技術やクロム元素を発見したルイ=ニコラ・ヴォークランと協力し、クロムグリーンを作り出したり、ルイ・ピエール・シルト(Louis Pierre Schilt)といった優れた画家を登用するなど、頭角を現し、息子たちも工房に入り活躍(1817年にジャンは死去、息子たちが引き継いだ)。1806年にはアメリカのホワイトハウスにも納めた。1819年のパリ産業博覧会で金メダルを受賞、そのとき訪れたルイ18世に称賛された。その生産は単なる食器にとどまらず、フィルターコーヒーメーカーなども製造した。1835年工場閉鎖。
宮廷にゆかりある一族、ダゴティ兄弟(ピエール=ルイ、エティエンヌ・ジャン=バプティスト)がリースにより1800年に始める。当時贈答品として人気があった工房。ジョゼフィーヌに庇護され、1804年に「皇后陛下の磁器工房」の称した。1810年オノレと提携、1819年まで続いた。工房はドニュエルに売却され1823年まで続いた。
フォブール=サン=ドニ通りの窯。1779年、ルイ16世の弟でのちシャルル10世になるアルトワ伯に庇護されたため「アルトワ伯工房(Comte d'Artois)」と称した。1784年に色絵の生産を許可された窯の1つ。アノン(Pierre Antoine Hannong)により開業という説が有力であったが、実はこれは違う工房であると現在では考えられている(住所が5と26異なる)。アノンは中国磁器に長けた人物で1773年の新聞にその能力が公表されたが、1780年には閉鎖となっている。
ティル通り(Rue Thiroux)にあった工房。1776年、アンドレ・アリー・レベフ(Andre Marie Lebeuf)により開窯。1784年に色絵の生産を許可された窯の1つ。マリー・アントワネットの庇護を受け、1778年より「女王の工房(manufacture de la reine、Queen)」と称した。1784年、レベフがGuyに売却。GuyはHouselと協力する(Guyは1798年死去)。1803年に公売にかけられ、1804年に閉鎖となった。
ボンディ通り(Rue de Bondy)にあった工房。1781年にクリストフ・ディール(Christophe Dihl)とゲラール(Guérhard)によって開窯。1784年に色絵の生産を許可された窯の1つ。アングレーム公爵の庇護を受け「アングレーム公爵の工房(Duc d'Angouleme)」と称したが、革命によりその後援はなくなった。王政復古期も活動的であった。
(Rue des Boules、Rue Amelot)にあった工房。ルイ・オノレ・デラメール(Louis Honore Delamarre)によって1784年に登録。1786年Jean-Baptiste-Augustin Outrequinに売却。オルレアン公の庇護を受けるも、1789年で終了した。
ダルテ兄弟(ダルト兄弟)はジョセフ(Joseph 、1765-1832), ルイ=ジョセフ(Louis Joseph 、1766-1843) 、ジャン=フランソワ(Jean Francois 、1768-1834)の3人兄弟で、1795年より協力してシャロンヌ通りの工房を買収。ジャン=フランソワを中心としてパレ・ロワイヤルにも店舗を開いた。1803年よりルイ=ジョセフとジャン=フランソワの2人でロケット通りの工房で活動、ジョセフは1804年からポパンクール通りの工房にて単独で「Darte Aine」という名前で活動した。1809年マリア・レティツィア・ボナパルトの庇護を受け、「Manufacture de porcelaine de S.A.I madame Mere de SM. I’Empereur et Roi」と称した。1816年には2番目の店舗をヴィヴィエンヌ通りにオープン。1819年の展示会で銀賞を受賞。当時のパリでも随一の工房として発展したが、ボナパルト家の没落とともに衰退。1824年に息子のオーギュスト・レミの力を借り「Darte Fils」となったが、翌年解散。 1828年に破産が宣告されたがそれでもルイ=ジョセフはボルドー公爵の援助を受けることに成功し、翌年に債権者と和解、ロケット通りの工房は1833年まで続けられ、その幕を閉じた。パリでの随一の絵付け師であったジャン・ピエール・フイエはもともとダルトで修業していた。
マルク・シュルシェールが設立。マルクは1766年、農夫の息子として生まれる。パリの有力工房ルシンガー&ロクレの工房で働き、1798年にフォブール=サン=ドニ通りの磁器工房を買収した。1806年に妻のヴィクトワールに財産分与を求められ、1810年で製造中止、その後1823年に工房は売却された。別にあった店舗での販売と絵付け事業は続けられ、博覧会で賞を受賞するなど活躍した。1828年に息子のヴィクトールが加わり、ヴィクトルは新たな販路拡大のためメキシコとキューバ、アメリへカ渡った。そこで目にした奴隷制度を目の当たりにし、奴隷制度廃止運動をするようになった。1832年、マルクは死去、1834年に事業は廃止され、ヴィクトルは政治活動に力を入れた。ヴィクトルはその後、フランス植民地における奴隷制度廃止運動を尽力し、1848年の奴隷制廃止政令の制定に至った。
1785年設立のオノレ(Honore)窯で、フランソワ・モリス・オノレ(Francois Mourice Honore)の息子として1812年に経営参画する。1816年からナポレオンも購入しジョゼフィーヌがかつて庇護していたダコティ窯のピエール=ルイ・ダゴティ(Pierre Louis Dagoty)と資本提携をする。1820年に資本提携を解消したのちも手腕を発揮し、工房を発展させた。1855年死去、工場は息子が引き継いだ。
1750年生まれ。1778年にケンブリッジシャーとハンティンドンシャーのシェリフ(州知事)となり、政治家として活動。アメリカ独立戦争では英国軍の食料配給者として活躍。首相候補となるもウィリアム・ピットに敗北。1788年、フランスへ移住し、1790年にブランシェロン(Etienne Jean Louis Blancheron)をとしてクリュッソル通りに工房を設立する。イギリス皇太子(プリンス・オブ・ウェールズ)の庇護受けたため、Manufacture du prince de Gallesと称した。1792年にはシャンティイ窯を買収、スイスの有力工房となったニヨン窯を設立したフェルディナンド・ミュラー(Ferdinand Müller)を加え、磁器製造業に革新をもたらし、パリでも重要な一人となった。1793年にバラン(Jacques Bernard Balan)に工房を売却するも、1794年にはブランシェロンが買い取った。1798年にトロワボルヌ通りに移転、工房は1802年に破産した。ポッターは政治家だったこともあり、フランスへ移住後も帝室とかかわりが深く、1802年にイギリスとフランスで結ばれたアミアンの和約にも、その締結のため活躍したとされる。1817年、イギリスにて死去。
ドミニク・ドニュエル(Dominic Denuelle)の工房。ベリー公爵夫人マリー・カロリーヌ・ド・ブルボンの庇護を受ける。非常に技術が高く、現在でも高く評価されいる窯の1つである。メトロポリタン美術館にはドニュエルによる同夫人の像が所蔵されている。
1810年頃、モーリス・アンドレ(Maurice Andre)による絵付け工房。
ジャン・ピエール・フイエ(Jean Pierre Feuillet、1777年〜1840年)によってパリのラ・ペ通りに設立(1814年)。フイエの父親はコンデ公ルイ6世アンリのシェフをしており、フイエ自身もコンデ公の設立した美術学校で絵付けを学んだ。その後ダルト兄弟の工房で修業し、コンデ公の庇護を受け独立、パリを代表する絵付け工房となった。ダルト兄弟やナスト工房から白磁を入手し、帝政様式から復古王政期のスタイルで活躍。その技術の高さから各国の貴族からの注文を受け、パリでも最高の評価を得ていた。1834年に同じ絵付け業者のボワイエ(Boyer)と提携し、その後ボワイエとして引き継がれる(恐らくフイエの死後)。1855年パリ万博では絵付け部門で2級メダルを受賞している(同部門ではトップ)。19世紀後半は機械化の流れに押され、徐々にその品質が落ちていき様々な業者と提携、最終的にPaul Blot et Hebertとなった。またフイエは甥が別工房で活動をしており、こちらはセーヴルスタイルを制作していた(〜1846年)。
1796年、パリで生まれる。本名はジャコブ・マルドシェ(Jacob Mardoch?・e)。ヨーロッパを旅し、セーヴルで働き磁器製造を学ぶ。その後1830年頃(1833年とも)にフォンテーヌブロー窯を買収し、製造を始める。また、ボンディ通りに工房も持っていた。同時期の1830年に装飾図案文様集を出版するなど、デザインに非常に精通していた。立体的で豪華な装飾性に優れた作品を生み出し、特に花瓶や水差し、人形など装飾品を得意とし、当時のフランス磁器界に新しい風を吹き込み、人気を博した。1868年死去。プティの作品はルーヴル美術館など各国の美術館に所蔵されている。
1821年頃に工房を設立しChapelle Filsとして活動していたシャペル(Chapelle)と、1827年から陶磁器やガラスを販売していたメイヤール夫人(Madame Maillard)が1840年頃に提携したパリの工房。シャペルは1830年代にジャコブ・プティ(Jacob Petit)の協力を得て博覧会で高い評価を得ていた工房で、25人〜30人ほどの技術者を雇っていた。白磁の販売もしていたが、工房は絵付け専門の工房として活動していたとされている。1844年のパリ産業博覧会で賞を受賞するなどし、1850年まで協力関係は続いた(1850年代も続いたとの説もあり)。
など
パリにあった絵付け工房であり、陶磁器やガラスなど販売した小売店でもある。ルイ・マリー・フランソワ・リウレ(Louis Marie Francois Rihouet)がアルブルセック通りにて1818年に設立。リウレもともとオルレアン公に仕えていた一族であり、早くからオルレアン公ルイ・フィリップ(1830年よりフランス国王)に陶磁器を収めており、1824年には王室へ納める陶器メーカーとして任命された。1830年、ラペ通りに移転、ルロゼイ(Lerosey)とも提携した。
エスカリエ・ド・クリスタルはパリのパレ・ロワイヤルにあった高級店であり、様々な美術工芸品を取り扱い工芸の中心ともいえるリテイラー。1818年、当時の国王ルイ18世の御用達となる。1830年前後にボワン(Boin)に引き継がれ、1839年にピエール=イジドール・ラオシュ(Pierre-Isidore Lahoche)が加わった(Lahoche et Boin)。1852年(1854年とも)にエミール=オーギュスタン・パニエ(Emile-Augstin Pannier)が加わりPannier, Lahoche社となった。1867年にラオシュは引退、パニエ一族によってその後運営されていったが1923年に閉店となった。陶磁器の販売も行っており、「Lahoche」銘による作品が残されている。絵付けはボワイエなど他工房へ委託していた可能性が高い。
シャルル・アレー(Charles Halley)によって設立。その成り立ちは不明な点が多いが、1793年にはモンマルトル大通りにて陶芸家として記録があり、もともとカーンの工場長をしていたとされる。1811年、その後、陶磁器などの小売店「Au bon pere de famille」をヌーヴ・サン=トゥスタッシュ通りで経営していたたルボン(Lebon)がアレーの娘と結婚し、提携する。ナポレオン政権が終わり復古王政期になると、アルトワ伯爵(のちの国王シャルル10世)に庇護され、その名を冠した窯印も使用した。セーヴル国立陶磁器美術館に残された資料では「Manifacture de porcelaine de SAR Monsieur, frere du Roi」とある。1822年にその記録は途絶えている。
フランス製の磁器で一般的に一番よく聞く名前がおそらくこのリモージュである。18世紀にパリの磁器工房などがリモージュに伝わり、磁器を製造するようになった。初期のころはセーヴルへも白磁の提供をしていた。その後、装飾も手掛け、多くの工房が乱立するようになった。初期のころのリモージュに窯印はないが、19世紀中盤ごろからはそれぞれの工房の窯印がつけられていることが多い。シンプルなものから独特のものまで、多種多様の製品が造られ20世紀以降は安価なものがほとんどであるが、エナメル彩やパテシュールパテのような特徴的な技術に特化したものもある。
1920年頃
1883年〜1914年のマーク
1905頃〜1930年代
装飾のないものには赤のマークはつかない。
1858頃〜1881)
1891年〜
1829年、ピエール・ペトリ(Pierre Pétry)がマルク・シュルシェールからヴィエルゾンの工場を購入。1845年、息子のアドルフ・アッシュ(Adolphe Hache)が引き継ぎ、義理の弟レオン・ぺパン= ルアルール(Léon Pépin-Lehalleur)と経営をしていく。アッシュ&ぺパン=ルアルールは急成長し、1850年代には6つの窯を持ち、フランス磁器の代表とまで言われました。1934年閉鎖、会社はピリヴィッツに引き継がれた。
ここに載せたのは一部で、それぞれの工房で他のマークも使用している。また、紹介した以外にも多くの工房がある。
フランスでは日常品として一般的にはファイアンス(錫釉陶器)が用いられていた。
参考文献
『Vincennes and Sevres Porcelain』(Adrian Sassoon/J Paul Getty Museum Pubns/1992)
『Collectors Encyclopedia of Limoges Porcelain 』(Mary Frank Gaston/Collector Books/2000)
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